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それまで房一は、加藤巡査を通じて出張所と話をつけ、何らかの形で収拾させたいと考へていたのである。が、彼の素速い判断力は今はその余裕もないことを見抜いた。
もちろん、むかしから湯治にゆく人があればこそ、どこの温泉場も繁昌していたのであるが、その繁昌の程度が今と昔とはまったく相違していた。各地の温泉場が近年著るしく繁昌するようになったのは、何といっても交通の便が開けたからである。
「すると、何ですか、十年契約といふやうなことにでもなすつたんですか」
それは何かしら長い退屈な時間だつた。香煙はまつすぐに立ちのぼり、二尺ばかりの高さでゆらゆらし、蝋燭の灯はそれに答へるやうにまたゝいた。さつきまで思ひ思ひの世間話に身を入れていた連中は一瞬厳粛になり、それから放心し、今一律に無表情のまゝぢつとしていた。その中で、大石練吉は今も頭をまつすぐに持ち上げて仏壇の方を眺めていたが、間もなく千光寺の住職の剃り上げた後頭部に人並外れて骨が突出し、その下にぺこんとした凹みのできているのを発見し、しきりとそれを見つめていた。
「いや、高間さんは大漁ですがね。わたしの方はさつぱり駄目ですよ」
「あれなら、私の方からいゝやうにしときます」
しかし、いづれにしても、房一がかういふ率直な頼み方に出たことは練吉の気をよくした。彼は熱心に診た。この結果が房一の診断と大差なかつたにもせよ、たゞそれだけでほつとした面持になつた房一を見ると、練吉は何かしらいゝことをしたやうな気にもなつた。軽蔑とまではいかないが、たとへ心ひそかに房一を医者として自分と同列に考へなかつたとは云へ、そして、肉親を診る時に心が乱れて困るといふ房一の打明けををかしがりはしていたものの、この房一の隠すところのない当惑の様子、その正直さは、知らず知らず練吉を同化させるやうなものを持つていた。
「御病人はどちらで?」
「なに、消防演習?」
「やあ、来てますね」
「いゝかね。あんたの身体はどこも悪くない」
けれども、ヌルい湯に長くつかっていることは、頭を鎮静させ、時空を忘れた茫々たる無心にさそいこんでくれる。うちの湯殿には灯がないので、ほかの部屋からの光で間に合せ、かすかに光のさす湯槽では、まったく、仮睡状態になるときがあった。インシュリンや電気ショック療法のなかった一昔前の精神病院では温浴療法というものをやったそうであるし、ヌル湯の湯治場では、精神病に卓効ありとあるのが多い。それは、しかし、私の場合のように、こんなに湯の温度に同化して長い時間仮睡状態にふけることができたら、と、註釈が必要ではないかなどと考えた。
練吉若夫婦は診察所の二階を居部屋にしていた。そこと正文夫婦の住む母家おもやとの間には一見して判る気風の相違が現れていた。正雄はそこへ近づかないやうに云ひふくめられていた。
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